【おじいちゃんの戦争】〜北千島編①〜

昭和十八年八月三十一日。朝食をすませて、
輸送船高島丸の無線室に居た私は、
折からの爆発音にすわッとばかり扉を排して甲板に出た。
波を蹴ってダイハツ(上陸用舟艇)が走る、猛烈なスピードだ。
百米も通り過ぎたと思う海面にドーンと水柱が立つ。
左右に四隻のダイハツが本船をとりまくよう
に爆雷を海中に落としているのだ。

スリッパを引っかけ、私のあとを追って出て来た無線局長は
「このあたりが敵潜の待ち伏せ場所なのです。
爆雷で脅して退散させるためです」と言った。
爆雷が爆発するとズシンと甲板の私の足許まで震動が伝わってくるようだ。
右手に円錐型をした島が近づいて来た。
「これが阿頼度(アライト)島です。
日本の領土の最北端です。北緯五十二度くらいですかな。
船はいつもこれを右に見て幌筵(ホロムシロ)海峡にはいるのです。
だから此処が待ち伏せの恰好な場所なのです」
局長の説明を聞いていると、
そのアライトがずっと大きく見えて来た。
岸はすべて断崖絶壁だ。
「無人島です。守備兵もいません」
局長は説明を続けながら前方を指さした。
「薄く見える右の島があなたの行かれる幌筵島です。
アイヌ語でパラムシル、幅二十粁長さ百粁近い大きな火山島です。
噴煙が見えるでしょう。左が占守島(シュムシュ)、
その左に遠く白雪を頂く連峰がカムチャッカ半島です。
パラムシルとシュムシュの間がホロムシロ海峡、
これが港代わりになっていて、これからそこに入るのです」

気が付くと護衛の1等駆逐艦のウスグモが本船と並行して走っている。
爆雷攻撃は陸軍のダイハツ(船舶工兵隊)にまかせている様子だ。
オホーツク海上で遠くを走っている姿は頼もしく大きく見えたが、
今こうして五千頓の本船のそばに来ると小さい小さい。

高島丸は日本郵船の新造船で五千頓の貨客船、
小樽と樺太の恵須取(えすとり)航路に就航する予定で砕氷船式になっている。
同型の姉妹船があり、白洋丸と言ってこれは海軍の徴用となっていた。
良い船はすべて南方戦線にとられたが、
そういうわけで北方に残っている虎の子である。
はき溜めの鶴と言われた。
今回も高島丸一隻に一等駆逐のウスグモが護衛についた。
北海道を離れるまでは礼文島の海軍機が二機上空から護衛した。

アンパンを置いたような形の
占守島の上空にいた零戦(海軍の零式戦闘機)が二機こちらへ飛んで来た。
歓迎の意味であろう。いよいよホロムシロ海峡にさしかかる。
右手に活火山が見える。硫黄山と言うのだそうだが、
風向きが変わるとぷんと硫黄の臭いがする。
樹木も生えてない地肌を露出した異妖な感じがする山だ。
その裾野から海浜にかけて、草をかむった兵舎群が点々と見える。
ちょっとした台地が陸軍の飛行場になっているのだそうだ。
さあ、いよいよやって来たぞ、武者震るいのようなものを私は感じた。
二十六歳であった。

「今日はまた飛びきりいい天気ですね。
北千島ではこんな晴天は1年に何回あるかと言うほど珍しいのですよ。
Y少尉殿を歓迎しているのでしょう。
さて、ここにどのくらい居られますか。
一年ですか、二年ですか、小樽へお帰りの時も本船へ乗ってくださいね」
「そう願います」
私は降船準備にとりかかった。

S曹長が船で迎えに来た。初対面である。
彼が船舶固定通信連隊の幌筵通信所長であったが
彼に替わって私が広島の本隊から赴任した。
将校の私に替わるということは、
もう一つのラジオビーコン通信所を併せ指揮すると言う意味がある。

そもそもは海軍陸戦隊などがアッツ島キスカ島に上陸してこれを占領した。
南方戦線の熾烈化に伴い、米国の注意を北方に逸す狙いがあったが、
海軍が陸軍に引き継ぎたいと言って来た。
陸軍は、キスカ島の隣の島に米軍の飛行場が出来たので、
守備するには北千島から遠くて不利であったから放棄するかが議論になった。
大本営は大々的にこの二島の占領を発表した手前、
放棄は国民にどう説明していいかと迷い、
戦略価値も少ないのにこの二島の占領を続けることにした。

昭和十八年、アッツ·キスカ増強作戦を計画した。
五月頃このあたりの海上は霧が多い、そこで霧中輸送をやろう。
そのために北千島とこの二島にラジオビーコン通信所をつくろう。
兵を教育していたのでは間に合わないから逓信省に頼み、
各中央電信局から総勢三十名あまりの軍属を出して貰おう。
霧中輸送作戦が終わったら、兵に申し送って帰って来る、
という段取であったがなかなか要員が集まらなかった。

ともかく無理をして
各中央電信局が供出した三十名は急を要するので
小樽から駆逐艦で北千島へ運ばれた。
幌筵要員は直ちに建設にとりかかり、キスカ要員は待機、
アッツ要員は便があるとてイ号潜水艦に便乗して出発した。
これがなんと五月十一日にアッツに到着した。
翌十二日から米軍の上陸作戦が始まったのである。
この潜水艦は帰投しなかった。

この要員の中にある中央電信局の十九歳の通信手が居た。
下宿屋で蒲団から抜け出した形のままでアッツで戦死した。
両親に知らせる間もない、その頃の電話事情は今のように普及していなかった。
アッツの玉砕のラジオニュースを
まさか息子が関わっているとは知らずに聞いていた両親であった。
五月に霧中輸送をやる予定が、
五月に要員を派遣すると言う遅れであるから作戦を変更すべきであった。

アッツの敗戦をみて始めてキスカを撤収することに踏き切った。
キスカ要員は内地に帰され、軍属を解かれた。
かくして幌筵島の兜山と
有馬岬のラジオピーコン通信所の十名の軍属だけが残って、
私の指揮下に入ったわけである。
十名は玉砕し、十名は内地に帰還し、
残った十名の士気は頗るあがらなかった。
アッツ·キスカ増強作戦は挫折したのであるから、
この十名の軍属をそのままのこしておくのもおかしなものであった

佐倉曹長以下六名の帰還兵が挨拶に来たのでその軍歴を聞いてみた。
応召してからまず上海、安慶作戦、
武漢作戦と揚子江を遡り、漢口に暫く居て、台湾の高雄、海南島、
マレー半島のシンゴラ敵前上陸、シンガポール作戦、
いったん下関港に帰って来たので、
召集解除かと戦勝気分も手伝って喜んでいたら上陸もさせないで出港、
日本海で冬服に着換えさせられ小樽、
そして北千島へとやって来て一年であった。
桟橋へ急ぐ彼等の後を小さな犬が従いて行く、
小樽で拾って来た「ホロ」だそうだ。

船舶固定通信連隊は主要港に通信所をおき
輸送船の積荷等の情報を交信する任務がある。
連隊本部が広島宇品、ここに船舶司令部もある。
第一通信隊が上海、第二がシンガポール、第三がラバール、
第四が宇品にあり琉球列島から北千島までを担当していた。

港には碇泊場司令部があり、
これが輸送船情報電報の依頼主であり、通信所はその給養をうける。
私は幌筵の碇泊場司令部の将校団に入れて貰ったが、
司令部は水戸の編成で、その東北弁が耳なれず難渋した。
司令官の夏木中佐だけは京都の人で、私も京都だと言うと非常に喜んで
「おい副官、儂と同じ京都だと言うんで今夜一パイやりたいが設営してくれんか」
と私は最初の夜から馳走になった。
食膳のタラバガニ (鱈場蟹)は1米もの脚をした化物のような蟹で、
カニ好きの私でも一つの関節を、持て余すほどのボリュームがある。
カレイの唐揚げは始めこそうまかったが、
桟橋で釣糸をたらせばすぐ引掛かり、餌は紙切れでもかかるので、
バカカレイと呼んでいる。
後日将校食堂では、バカカレイを朝は焼いて、昼は煮付けて、夜は唐揚げと、
三度三度食べさせられるのには参った。
他に蛋白源が乏しかったからである。

給養をうけるので経理部には特に入念に挨拶に行った。
K主計大尉、補佐のT主計中尉ももいいお齢であった。
「Yさん、敵の謀略放送を一回聞かせてくれませんか」とサンづけで呼ぶ。
北千島にはアッツ。キスカ行きの日本酒がうんとこさあった。
札幌の北方軍司令部ではそちらで適当に処分せよと言う。
その頃の日本酒は長くおくと酢に変質してしまうのだ。

携拶まわりがひと通り終わった頃、慰問袋にこんなものが入っていました、
と兵が「冬の宿」の小説本を持って来た。
これはまだ読んでいなかったと、
長靴をぬいでストーブの傍でくつろいで読み始めると、
戸外がなんだか騷々しくなった。
窓から外を見ようと立ちあがると、
下士官が「隊長殿ッ、空襲です」と跳びこんで来て、
壁の鉄兜を取ってすぐまた跳び出して行った。

空襲をうけるのは生まれて初めての私は、
ゴム長靴をはこうとするが、なかなかはいらない。
左の靴に右足をつっこんでいたのだ。
戸外に出るや否や上空を大きな黒いものがサーッと通り過ぎた。
十米(メートル)ほど前方に機銃掃射の土煙がたった。
思わず伏せった。
後で考えてみると腰が抜けたのであった。
十米のことで命拾いをしたと安堵した時、
咽喉はカラカラであった。

さっきのは土煙でなく、海浜の水溜りの水煙であった。
そのそばでへたったのだから将校服は泥まみれであった。
そこへT主計中尉が通りかかった。
「警報なしの空襲でびっくりしたでしょう。
怪我はなかったですか着換えはありますか。兵服を貸しましょうか」
その日から借用証を入れて兵服を着ることにした。

太平洋側から米軍の三機が低空で海峡に迫った。
陸軍の隼戦闘機群がこれの迎撃に飛び立った。
敵機はくるりと向きを変えて太平洋上へ遁走した。
この敵機は囮だったのだ。
本隊はカムチャッカの山脈にかくれて接近した、
こちらの電波探知機に感づかれないように接近して来て、
急にオホーツク海上に出て、幌筵海峡を西方から海上すれすれに飛び、
停泊中の艦船と港湾施設を襲った。
占守島の零戦は敵の第一波を囮とみてか上空で遊弋していた。
第二波を見つけて急降下してこれを攻撃した。
海峡にいた1万頓級の巡洋艦那智も賑々しく応戦した。
那智は千島根據地の第五艦隊の旗艦である。
搭載の火器の多いのがよく分かった。
一陣の風のような急襲であった。
海峡が静けさを取戻した頃、隼が帰って来た。
双方損害がなかったらしい。九月十二日のことであった。

このことがあって、海浜の掩兵壕(トーチカ)の一つに通信機を入れていたが、
海峡も空襲が頻繁になるであろうから、
通信所をもっと山手に移して横穴壕に入れようと考え、
碇泊場司令官の賛同を得た。
そろそろ雪もちらつくようになり、候補地選びを急ぐことになった。
アッツ島の飛行場完成は確実とみえた。
アッツ玉砕後僅か三カ月であった。

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