【おじいちゃんの戦争】〜はじめに〜

数年前、父が死んだときに、
僕はひと世代もふた世代も上の人たちとの親戚付き合いを始めました。
今までなら親世代がやってくれていたことを、僕は若くして体験することになったんです。
おばちゃんを老人ホームに入れる、遺産相続、空き家の売却。
新聞に出ている社会欄の見出しを並べているかのようですが、
すべてが現実になり、そしてすべてをクリアしてきたんですね。
そんなとき、親戚の叔父さんとはとこから、飲みにいくお誘いを受けました。
宴も終盤なったとき、おじさんが
「そうだ、おじいちゃんの戦争の話、面白かったなあ。また聞きたいな。」
と言ったんです。
実は、うちの家族はあまり戦争の話はしたくないんです。
なぜなら広島の話だから。
でもおじいちゃんは、晩年あらゆるところで自分の戦争体験を語り、
次の世代に伝えようとしていました。
そして自費出版で、一冊の本を残したのです。
けれどこのままでは誰にも見られないまま消えていくかもしれません。
そこでネットに上げることにしました。
親戚のおじさんのように、ひとりでも興味を持っていただけると幸いです。

うちのおじいちゃんの経歴

おじいちゃんは大正生まれ。同志社大学を卒業して銀行に就職。
徴兵検査の時に、当時の人としては珍しくゴネたらしく、
最前線に立たなくていい通信兵に。
訓練も早く終わるからと普通の兵隊さんコースを選んだらしいのですが、
徴兵されてきた人たちがアホそうな下士官に殴られているのを見て、
ああ、偉くなる方にしよう思ったらしく、
太平洋戦争では陸軍の下っ端将校でした。
任地は北千島、そして広島。
原爆のあと、大本営に報告に行く重要な仕事をしたらしく、
それが親戚の叔父さんが面白いと言っている話で、
おじいちゃんの英雄談でもあります。
死ぬ間際に、
「北千島にいてシベリアに行くか、
広島で原爆にあうか、どっちが良かったんだろう」
という話をしていました。

しばらく、おじいちゃんの戦争を連載します。
なお反戦でも、反原発でもないです。
政治的なこと、歴史的な解釈はここではしません。
内容が少し事実と違うかもしれませんが、
ひとりの男の生き様としてお楽しみください。
また人名は調べればわかりますので、とりあえずイニシャルにしました。
うちのおじいさんは、Yです。
ではこのページでは、うちのおじいちゃんが書いた本のプロローグををご覧ください。

プロローグ

生者必滅、誰にも例外なく死が訪れる。人は時々この死を忘れることがある。
明日は必ずあると思っても、今夜寝たら明朝起きないかも知れない。
そういう体験を原爆前後に私は味わった。
「死の隣人として生きる」ならば、人は滅多に過ちをおかさないだろう。

北千島にいる頃、米機の空襲で夜中爆弾が近くに落ちたことがある。
シュルシュルという落下音を生まれて初めて聞いて、
もはやこれまでと深い雪の中に突っ込んだ。
暫くして掌に冷たさを感じて起き上がった。
夜が明けてみると、二十米(メートル)の処に不発弾があった。

また昭和十九年八月小樽へ帰る途中、
六隻船団の中で一番足の速い(二十五ノット)船に乗っていたが、
これが二日目の夜エンスト。
船団速度は六ノット、修理完成したらすぐ追いつくというので、
僚船五隻も護衛の一等駆逐艦も先へ行ってしまった。
オホーツク海上、エンジンの止まってしまった船上では、
浪風だけで、月の浜辺に独り佇んでいる寂しさがある。
このまま敵潜に見つかって、魚雷の餌食になってしまうのかと、
思いつづけた二時間があった。

原爆以後、元気そうだった周囲の人びとが次つぎと亡くなって行った。
明日はわが身かと思わざるを得ないではないか。
相手は目に見えない放射能だったから。
「死」に直面した時は、人は美しく死にたいと希うものだ。

父は八十二歳で亡くなった。
敗戦の混乱期で非常に気の毒な晩年ったと思う。
原爆の後遺症がありながらも、私は幸い父の年齢に達するまでになった。
ここらあたりで、わが「生の証」にと雑文を1本にまとめようと思い立った。
友人の勧めもあったが、I女史という知友を得て実現までにこぎつけた。
ご長女I社長の絶大なご尽力に感謝の念を捧げたい。

平成十年六月 琵琶湖畔一里山の寓居にて

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